当会会員の『私の邪馬台国論』『私の古代史論』
※筆名・題名をクリックすると掲載のページにジャンプします。
なお、各論文の紹介内容のコメントは、ページの下部に記載しております。
令和6(2024)年

【2月度】
『古墳から見たヤマト王権の形成』 柴田克彦
『日本の歴史の始まり』 黒岩 伸一

【1月度】
『親魏倭王 見過ごされてきた『史記』「古朝鮮方数千里」』 田口 紘一
『日本の歴史と中国の歴史の相違点』※論文ではありません 黒岩 伸一

 

紹介

『古墳から見たヤマト王権の形成』 柴田 克彦(会員番号10117)
古墳時代は前方後円墳の箸墓から始まり、卑弥呼の死が248年とすると、箸墓の築造が3世紀中頃とされているので、その時代が卑弥呼の時代と重なることになる。卑弥呼の時代を解明するには、古墳時代から考える思考が必要であると感じている。
殆どの方々が時代を追って邪馬台国を検証する手法を試みておられるが、邪馬台国の状況を把握する道として、邪馬台国以後の状況を掌握することにより解明できるものと考えている。つまり「邪馬台国はどこだ」を考える方法論として、邪馬台国以後の歴史から逆に邪馬台国を探す方法論があって然るべきと考えたものである。
そして本稿は、ヤマト王権の形成が女性に入り婿する形で継承されたと、シンプルに考えている。2024年2月28日


『日本の歴史の始まり』 黒岩 伸一(会員番号10408)
日本の歴史は、どの辺から始まったのか。はっきりいって、出雲のスサノウから、始まったと、言えると思う。それは、水の湧き出る盆地や川の傍に人が住む集落ができて、そこに村長のような支配者が居ると言った形で、全国に大小何千と存在したと思われる。2024年2月28日


『親魏倭王 見過ごされてきた『史記』「古朝鮮方数千里」』 田口 紘一(会員番号10408)
卑弥呼はなぜか魏から「親魏倭王」という特別の称号を授与された。「帯方より女王に至るには万二千余里」という倭国位置の設定について、三国時代以前に書かれた中国の歴史書のなかから、それに関わる重大な記事を発見したので報告する。2024年1月1日


『日本の歴史と中国の歴史の相違点』 黒岩 伸一(会員番号10475)
この記事は、論文ではありません。会員の方々に読んで頂きたき、何かのヒントになればと思い書きました。2024年1月1日


令和5(2023)年

【12月度】
『ヤマト双國論』 洋夏 晴崇(ようかせいしゅう)
『天之日矛』 桑田 昭弘

【11月度】
『卑弥呼は初代斎宮だった』 たかみやしんじ
『倭の五王 隠された天皇家のスキャンダル』 戸室 訓行
『日本語の起源「古典サンスクリット」の琉球語4』 文字で解く古代史 邪馬台国と邪馬壱国は倭国 髙橋 正典

【7月度】
『邪馬台国の興亡と大和王権』 小林 良自
『大和国家の成立と南九州』 黒岩 伸一
『私の邪馬台国卑弥呼論』 土方 水月

【6月度】
『いくつかの古代妄想』 桑田 昭弘
『行程から読み解く魏志倭人伝と邪馬台国その5:帯方郡~狗邪韓国の行程』 吉田 薫
『邪馬台国新聞』…「古田説は成立するのか?」「九州説崩壊?」等を考える 大野 文雄

【5月度】
『「古事記,日本書紀の”欠史八代”の諸天皇は実在しなかった。」と言い切れるか? ~”和風諡号”から考える~』 横山 信三
『古事記の天皇の歳は年齢のことではなかった』 水野 健一
『邪馬台国はやはり日向(宮崎)にあった』 たかみやしんじ

【4月度】
『邪馬台国宮崎市説からヤマト王権の成立を考察する 箸墓古墳は台与の墓である』 土田 章夫
『邪馬台国と大和国を繋ぐ』 塚田 和正

【3月度】
『魏志倭人伝に記された国々の位置推定』 髙山 信紀
『魏志』倭人伝 複数史料と陳寿の困惑(「其北岸」は陳寿の加筆か) 田口 紘一

【1月度】
『漢字の読み方とそこから伺える歴史の断片』 尾関郁

令和4(2022)年

【12月度】
『中国史書について』 桑田昭弘
『末盧国の謎』 田中太郎

『資料1』 『資料2』
『A・大谷裕氏への論評』 村上 政利

【10月度】
『行程から読み解く魏志倭人伝と邪馬台国その4』 吉田 薫

【9月度】
『大和の狗奴国政権が吉備=邪馬台国を平定した』 若井正一
『表1』 『表2・図』
『邪馬台国の位置について』 平松 全一
『魏志倭人伝の道里の真実』 水野 健一(9/26修正済み)
『倭人伝の里程書式を定義し解読する改改』 大野 文雄(9/12修正済み)
『邪馬台国はその後どうなったか』 田口 紘一
『郡使に関する一考察 その二元制』 天川 勝豊
『一里を定数化する』 黒澤 功(9/12修正済み)

【8月度】
『東征による大和王権成立の過程』 白崎 勝
『書き換えられた魏志倭人伝』 中村 信也
『末蘆国は宗像である』 塚田 和正
『日本語の起源「古典サンスクリット語」で解く古事記の邪馬台国と卑弥呼③』 高橋 正典

【7月度】
『狗奴国は熊襲か?』 内野 勝弘
『邪馬台国は伊都国の秦族に征服された』改訂版 酒井 正士

【6月度】
『箸墓古墳に殉葬の墓が存在する』 土田 章夫
『日本のはじまり』 桑田 昭弘
『謎多き倭国王帥升』 竹村 紘一

【5月度】
『継体天皇の系譜は、なぜ「記紀」に書かれなかったのか』 田口 紘一

【4月度】
『稲荷を訪ねて北へ』 白崎 勝
『狗邪韓国はなかった』改訂 水野 健一

【3月度】
『二つの女王国・二つの金印』 岡田 博喜
●『狗邪韓国はなかった』 水野 健一(4月改訂版へ)

【2月度】
『「私の邪馬台国論」―市井の民の邪馬台国への旅―』 長尾 昭文

【1月度】
『正史三国志の史料批判からみる邪馬壹国所在位置論争への結論』 岡上 佑
『卑弥呼が仕掛けた邪馬台国への旅』 塚田 和正

 

令和3(2021)年
【12月度】
『女王国と邪馬台国東遷』 岡田 博喜

【11月度】
『万葉集に詠い残された出雲王朝・邪馬台国』 西山 恒之

【10月度】
『倭国三国志―古代王権の変遷』 田中 徹也
『行程から読み解く魏志倭人伝と邪馬台国その3:上古の歴史年代の推定』 吉田 薫

【9月度】
『神武東征と卑弥呼 神武東征はあったか?』 土方水月

【8月度】
『『古事記』成立時の疑問と『会稽東冶の東』追考』 田口紘一

【7月度】
『倭人伝諸問題の考察』 大野文雄
『日本語の起源「古典サンスクリット語」で解く魏志倭人伝⑵』 高橋正典(2021年12月加筆・修正)
『邪馬台国は伊都国の秦族に征服された』 酒井正士2022年7へ

『記紀風土記と倭人伝等の整合性をはかる』 田中 文也
『高天原と神々の様相』 田中 文也
『縄文海進第4報・猪の目洞窟』 田中 文也
『疫病と大国主命』 田中 文也
『何故?・・・邪馬台国の所在地をめぐって、どうして絞り込めないのか?』 久保田 真光
『魏志倭人伝の行程に誤りは無かった』 塚田 和正
『邪馬台国所在地論 再考』 江原 幸雄
『邪馬台国大丹波王国説』 伴 とし子
  『邪馬台国大丹波王国説 資料』 伴 とし子
『邪馬台国と狗奴国はその後どうなったか-狗奴国はスサノオ-』 田口 紘一
『斎宮豊鋤は石の神籬(ひもろぎ)のホケノ山古墳で西暦247年に擁立された大倭国の女王』 柴山 鳥人
『日本語の起源「古典サンスクリット語」で解く魏志倭人伝①』 高橋 正典
『女王国と男王国』 神尾 忠和

 

紹介

『卑弥呼は初代斎宮だった』 たかみやしんじ(会員番号10206)
「今まで本欄に投稿した幾つかの論文で唱えてきた邪馬台国日向説、卑弥呼ヲナリ神説、徐福渡来説、大和朝・九州朝併立説などが中央構造線の分析で極めて論理的に繋がってきた」。 2023年11月3日


『倭の五王 隠された天皇家のスキャンダル』 戸室 訓行(会員番号10475)
 2023年11月3日


『日本語の起源「古典サンスクリット」の琉球語④』 文字で解く古代史 邪馬台国と邪馬壱国は倭国 髙橋 正典(会員番号10413)
琉球語は日本語の起源の古典Skr.、古事記の伊邪那岐命・伊邪那美命は琉球列島のシネリキヨ・アマミキヨの神。邪馬台国は大倭王が命名の、邪馬壱国は卑弥呼が命名の倭のこと、奄美大島は倭の対の神の国。 2023年11月3日


『邪馬台国の興亡と大和王権』 小林 良自(会員番号10351)
「自説の「新類型」は、北部九州の邪馬台国が畿内勢力や初期大和王権を支配していたとするものです。統治機関「大倭」の消長を辿り邪馬台国の興亡を考え、大和王権成立の鍵となる卑弥呼と崇神の新たな関係を明らかにしました。」 2023年7月29日


『いくつかの古代妄想』 桑田 昭弘(会員番号10479)
 2023年6月20日


『行程から読み解く魏志倭人伝と邪馬台国その5:帯方郡~狗邪韓国の行程』 吉田 薫(会員番号10270)
「古代において、帯方郡から狗邪韓国に行く方法は、海路、陸路及び内陸水路(河川利用)の3通りが考えられる。このうち内陸水路は、最も安全かつ便利な移動手段である。検討の結果、日数、距離とも合致した。」 2023年6月20日


『『邪馬台国新聞』…「古田説は成立するのか?」「九州説崩壊?」等を考える』 大野 文雄(会員番号10455)
「倭人伝里程の真髄に迫り、古田説の一角を論理的に崩すことができた」 2023年6月19日


『「古事記,日本書紀の”欠史八代”の諸天皇は実在しなかった。」と言い切れるか? ~”和風諡号”から考える~』 横山信三(会員番号10171)
「「”2代 綏靖”~”9代 開化”までの”欠史八代”の諸天皇は実在せず、紀年を延ばすため、後世に創作・追加されたものである。結果、古代史を語る場合、最初の天皇は”10代 崇神=初代 神武?”から始まる。」と言われている。果たして「”欠史八代”の諸天皇は実在しなかった。」と言い切れるのか? 非実存説の根拠の1つ”和風諡号”について考える。」 2023年5月18日


『古事記の天皇の歳は年齢のことではなかった』 水野健一(会員番号10474)
「今まで不可解だった天皇の年齢問題に新しい視点を取り入れてみました。」 2023年5月6日


『邪馬台国はやはり日向(宮崎)にあった』 たかみやしんじ(会員番号10206)
「邪馬台国が日向(宮崎)に広がっていたことが、記紀の新解釈から、宮崎県・鹿児島県に発掘されている地下式横穴墓から、そして、古代中国の一寸千里法から導かれた」 2023年5月6日


『邪馬台国宮崎市説からヤマト王権の成立を考察する 箸墓古墳は台与の墓であるぐ』 土田 章夫(会員番号10472)
「邪馬台国宮崎市説と欠史八代説から纏向は邪馬台国東遷直後に拠点を置いた場所になる。宮崎市邪馬台国と纏向は直結する。台与と倭迹迹日百襲姫命は同一である。箸墓古墳は台与の墓である。 2023年4月5日


『邪馬台国と大和国を繋ぐ』 ( 塚田 和正(会員番号10377)
「邪馬台国と大和国との間には関連性があることを前提としてどのように繋げれば合理的か推理した。」2023年4月4日


『魏志倭人伝に記された国々の位置推定』 ( 髙山 信紀(会員番号10485)
「魏志倭人伝に記された狗邪韓國から、邪馬壹國、旁國 21ヶ国と狗奴國、遠方の「女王國東渡海千餘里」の国、侏儒國、裸國、黒齒國の35ヶ国の位置を推定し、方位、里数と日数、倭國について考察した試論です。」2023年3月4日


『魏志』倭人伝 複数史料と陳寿の困惑(「其北岸」は陳寿の加筆か) ( 田口  紘一(会員番号10408)
「陳寿は、「奴国・不弥国への記事」「投馬国・邪馬台国への日数記事」を別史料より採用したと想定し、それによって、「其北岸狗邪韓国」「邪馬台国・投馬国」「戸数」問題の解明を試みた。」2023年3月1日


『私の古代史論』 ( 尾関 郁(会員番号10158)
「古代文献に出る漢字の読みが著者によって異なるのは読者にとって悩ましい問題である。読み方のルールあるいは歴史の断片を探ることができればと思って、主要な漢字について考察してみたものである。2023年1月8日


『行程から読み解く魏志倭人伝と邪馬台国その4:1792470余歳とは? 倭とは?』 ( 吉田 薫(会員番号10270)
「ニニギ降臨から神武東征開始までの期間“1792470余歳”は、陰陽道(易)に基づく”世を寿ぐまじない“であり、古代日本の呼称の「倭」とはグループを意味する“輪(環、わ)”を起源とするのではなかろうか。」。2022年10月13日


『倭人伝の里程書式(読み方)を定義し解読する』 ( 大野 文雄(会員番号10455)
「倭人伝解読にあきらめムードが漂っている。それを打破しようと筆者は倭人伝と真っ向勝負をしている。里程書式(読み方)を定義し、短里でそれは合理的に解読でき、倭人伝の道筋は実在した道だったと信じている」。2022年9月8日


『書き換えられた魏志倭人伝』 (中村 信也(会員番号10442)
 2022年8月19日


『末蘆国は宗像である』 (塚田 和正(会員番号10377)
「魏志倭人伝の記述から狗邪韓国から末蘆国に至る海路として朝鮮半島南岸―対馬―壱岐―宗像及びもう一つの海路として朝鮮半島南岸―対馬―沖ノ島―宗像の海路があったことが読み取れる。」 2022年8月5日


『日本語の起源「古典サンスクリット語」で解く古事記の邪馬台国と卑弥呼3』 (高橋 正典(会員番号10413)
孝霊天皇の御子夜麻登登母母曾毘賣は、後漢との関係から続いた内乱を鎮め、倭国の女王・親魏倭王となる。崇神天皇は、内乱と女王を巡る神武以来の世襲を糺し、倭政権を築かれた。古事記は、内乱と世襲を隠している。2022年8月2日


『狗奴国は熊襲か?』 (内野 勝弘(会員番号10002)
2022年7月18日


『箸墓古墳に殉葬の墓が存在する』 土田 章夫(会員番号10472)
『日本書紀』には垂仁天皇のときに殉葬を禁止したと記載されています。
初期ヤマト王権の箸墓古墳でも殉葬が行われていた可能性があります。
箸墓古墳の殉葬の墓の可能性がある墓を発見したので報告します。2022年6月13日


『日本のはじまり』 桑田 昭弘(会員番号10479)
昨年3月に「まほろばの倭」という本を自費出版致しました。しかし、ほとんど売れていない様子なので、回論文という方法で世に出してみて見識の広い皆様のご評価を頂きたいと思っております。2022年6月15日


『謎多き倭国王帥升』 竹村  紘一(会員番号 )
2022年6月7日


『継体天皇の系譜は、なぜ「記紀」に書かれなかったのか』 田口  紘一(会員番号10408)
系譜がなくては「五世孫」は名乗れない。「記紀」のもととなる「帝紀・旧辞」編纂者は、応神の年紀を継体の五世代前まで延長したが、一方では、史実をほのめかす記述を巧みに潜入させた。2022年5月1日


『稲荷を訪ねて北へ』 白崎 勝(会員番号10056)
神武東征を考古遺跡から検証したところ、東征後、東国への移住作戦があったことが分かりました。
東征を率いた台与(豊受大神)は大王位を神武に委譲し、開拓を激励する「大いなる旅」に出たことを知り、
これの残影を訪ねた経緯と旅の結果です。2022年4月17日


『狗邪韓国はなかった』 水野 健一改訂版(会員番号10474)
「狗邪韓国」「邪馬台国の卑弥呼」この二つの常識の上に我々は魏志倭人伝の謎を解明しようと努力してきましたが、
この土台は実はしっかりしたものではなかったということを論述しています

そんな考え方もあるんだと頭脳を解放してもらえると嬉しいです。
2022年4月17日


『二つの女王国・二つの金印』 岡田 博喜(会員番号10471)2022年3月5日


『「私の邪馬台国論」―市井の民の邪馬台国への旅―』 長尾 昭文(会員番号10469)
川の流れと共に人は生きて来た。母親の胎内で成長する赤子のように大事に育まれ、
時には八岐大蛇のような災害の恐怖に怯えながらもしっかりと手を携えて歩いてきた。
河川の下に眠る遺跡群を透視フィルターで覗くと邪馬台国が見えてきた。 2022年2月11日


『正史三国志の史料批判からみる邪馬壹国所在位置論争への結論』 岡上 佑(会員番号10467)
「又南水行二十日至於投馬国」
太平御覧に残る魏志倭人伝逸文は、通行本とは少しく異なる。
陳寿の三国志執筆の過程を史料批判を基に再現し、邪馬台国論争の本質に肉薄する。  2022年1月2日
筆者紹介
岡上佑 1979年生まれ。勤め人として中国駐在を契機に、古代史研究にはまる。
「物語として歴史」をモットーに、文献の文脈的理解を追求する。

『「卑弥呼」が仕掛けた「邪馬台国への旅」』 塚田 和正(会員番号10377)
魏志倭人伝に記された「邪馬台国」は九州北部より時計回りで九州を一周して到着した九州北部にあった。九州を一周する「邪馬台国への旅」は「「卑弥呼」の発案であった。2022年1月1日


『女王国と邪馬台国東遷』 岡田 博喜(会員番号10471)
糸島の平原1号墳の木棺は、3世紀後半に近畿へ移動されたのではないかと考えられる一定の証拠が見られる。そうであれば長期論議の的であった邪馬台国問題に別の光が当たり、いろいろなことに説明がつく。 2021年12月4日
投稿者紹介:岡田博喜
1946年 長崎県佐世保市生、福岡市在住
会社代表 現役サラリーマン、現役ミュージシャン
勤務地 横浜市 ヨーロッパ向け工業技術認証業
作家ではありませんが、ドキュメンタリー系中心に30作品あり
https://www.eurexcert.com/STORY/index.html


『万葉集に詠い残された出雲王朝・邪馬台国』 西山 恒之(会員番号10020)
万葉集の歌の解釈には、数多くの疑問や矛盾がある。それを検証していく中で、万葉集には、唐王朝によって滅ぼされた出雲王朝・邪馬台国の姿が詠い残されていたことが分かった。2021年11月7日
みんなで古代史を考える会 https://shinse21.sakura.ne.jp/ 


『倭国三国志―古代王権の変遷』 田中 徹也(会員番号10393)
畿内説の視点から、次の仮説に基づく検証を試みた。①伊都国にあった一大率は、邪馬台国連合の近畿・東海勢が担当した。②狗奴国は呉から鉄の製錬法を取得した。  2021年10月19日


『行程から読み解く魏志倭人伝と邪馬台国その3:上古の歴史年代の推定』追考 吉田 薫(会員番号10270)
魏志倭人伝の行程は、当時の尺度の約6倍で記述されている。これは、大和国建国・前660年(辛酉年)の設定に応用されている。実際の建国年は241年であり、新生の大和国と邪馬台国は併存していたと考えられる。 2021年10月12日


『神武東征と卑弥呼 神武東征はあったか?』 土方水月(会員番号10378)
 2021年9月12日


『古事記』成立時の疑問と『会稽東冶の東』追考 田口紘一(会員番号10408)
『古事記』序文に書かれている太安万侶の撰録についての種々の疑問について、新たな矛盾のない解釈を求め、併せて元明天皇の意図などにも言及した。また、『後漢書』地理志から「会稽東冶の東」を追考した。 2021年8月12日


倭人伝諸問題の考察 大野文雄(会員番号10455)
魏志倭人伝について「里程は信じるに値しない、無視してもよい」が主流であり、通説となっている。
本稿はその通説が成立しないことを明らかにするものである。また、「邪馬臺(台)国」ではなく「邪馬壹国」が限りなく正しいことも述べる。


日本語の起源「古典サンスクリット語」で解く魏志倭人伝⑵』 高橋正典(会員番号10413)
古事記が明かす:日本人のルーツ・守護神ヤマの形・教義・言語
古事記冒頭の国生み神話には、伊邪那岐命と伊邪那美命が固(かため)成(な)した大八島国に、①大八島をヤマ神に似せた人の形とヤマ神の教義、②弥生人のルーツを示す五本の線、③日本語の起源を示す和数詞が隠されている


邪馬台国は伊都国の秦族に征服された』 酒井正士(会員番号10290)
魏志倭人伝の「距離と方向」を重視すると、伊都国は福岡県築上町湊に比定され、隋書・俀国伝に登場する「秦王国」の港である可能性が出てきた。本稿では「邪馬台国が秦族に征服された可能性」について論じる。


『記紀風土記と倭人伝等の整合性をはかる』 田中 文也(会員番号10003)
『高天原と神々の様相』 田中 文也(会員番号10003)
『縄文海進第4報・猪の目洞窟』 田中 文也(会員番号10003)
『疫病と大国主命』 田中 文也(会員番号10003)
2021年4月24日


『何故?・・・邪馬台国の所在地をめぐって、どうして絞り込めないのか?』 久保田 真光(会員番号10287)
諸子百家・・・各地乱立・・・しかし絞り込めないのは、基本的には九州説だけといえる。九州説以外は異論もあるが、概ね、大和説であり、さらにピンポイントで纏向遺跡にて一致している。
また、短里説?なるものがある。1里が約70~100m?で、周髀算経で証明された?と言うが、また当時、絶対になかった現今のメルカトル図(東アジア周辺)を脳裏に浮かべることが弊害になっている。 2021年3月25日


『魏志倭人伝の行程に誤りは無かった』 塚田 和正(会員番号10377)
これからの「邪馬台国論」は、魏志倭人伝に記された行程は正しいという原点に戻って、理論が展開されることが望まれる。 2021年3月4日


『邪馬台国所在地論 再考』 江原 幸雄(会員番号10367)
季刊邪馬台国139号(2020年12月発行)では、特集「その南に狗奴国あり 邪馬台国と対峙した狗奴国を追って」で邪馬台国の位置に議論が及んでいる。そこでその中の総括的三論考を紹介するとともに、私論を再考した。 2021年2月18日


『邪馬台国大丹波王国説』 伴 とし子(会員番号10022)
日本建国始まりの地がどこかが重要であり、それは、丹後、広くいえばタニハ王国、古代大丹波王国であったと考える。
日本建国の元になったのが倭国の中心であり、ここに卑弥呼がいたと考える。 2021年2月11日


『邪馬台国と狗奴国はその後どうなったか-狗奴国はスサノオ-』田口 紘一(会員番号10408)
魏志倭人伝のその後を推論するために、帯方郡から派遣された張政の働きを記紀から推測した。記紀には卑弥呼をはじめ、次の男王、台与、狗古智卑狗そして張政まで主要メンバーすべてが名を変えて登場している。 
2021年2月3日


『斎宮豊鋤は石の神籬(ひもろぎ)のホケノ山古墳で西暦247年に擁立された大倭国の女王』柴山 鳥人(会員番号10387)
応神天皇8年を西暦397年とし春秋半年暦・没年改年・空位なしとして遡ると、垂仁天皇の治世は西暦247年秋春から西暦296年秋春。邪馬台国が大倭国で女王国ならば斎宮豊鋤入姫の治世である。
2021年1月11日


『日本語の起源「古典サンスクリット語」で解く魏志倭人伝』改訂版 高橋 正典(会員番号10413)
以前掲載したものを改訂いたしました。 2021年1月11日


『女王国と男王国』神尾 忠和(会員番号10333)
2021年1月11日


 

令和2(2020)年
『倭人伝の真実に迫る』 大野文雄
『改ざんされた歴史認識で1300年も闇の中にある日本』 西山恒之
『陳寿は倭人伝の距離が誇大であることを知っていた』 星野盛久
『邪馬臺国の位置想定再考察』 谷浦 寿泰
『古代史から見た邪馬台国 続』 川崎 一仁
『古代史から見た邪馬台国 続 年表v4』 川崎 一仁
『倭人伝に記された「邪馬台国」への「真」の道』 塚田 和正
『卑弥呼女王国は二万戸だった』 田口 紘一
『魏志倭人などから読み解く邪馬台国時代の年代論』 内野 勝弘
『古墳時代を作った男の話(4)』 福島 巖
『八女の邪馬国王の卑弥呼が共立されて邪馬壹国王』 神尾忠和
『銅矛をまつる北部九州の東征と3世紀中頃のホケノ山古墳の出現』 柴山 鳥人
『徐福渡来の真相は疫病対策だった』 たかみやしんじ
『魏志倭人伝(5)』 山下 浩
『史料にみる邪馬台国の位置の条件』 菊地 昌美
『水行10日陸行1月』は纏向への旅だった』 槌田 鉄男
『日本語の起源「古典サンスクリット語」で解く魏志倭人伝』 高橋 正典
『『魏志』倭人伝行程の解明・仮説を見直したら』 田口 紘一
『解読「邪馬台国への道」』 塚田 和正
『古代史から見た邪馬台国』 川崎 一仁
『古墳時代を作った男の話(3)と倭奴国の金印は偽物だった』 福島 巖
『「古代天皇の年代観に対する新視点」 ~中臣氏の系譜から見た「記紀の紀年論」~』 米田 喜彦

 

紹介


『倭人伝の真実に迫る』大野 文雄(会員番号10455)
陳寿は魏志本伝や倭人伝に曹爽、司馬懿、卑弥呼の一大物語を書いている。その中に、短里の秘密が隠されており、その道筋は実在したものだった。
令和2年11月24日


『改ざんされた歴史認識で1300年も闇の中にある日本』西山 恒之(会員番号10020)
1300年にわたって日本人を闇の中に陥れ、我が国の古代史解明の最大の障壁となっている記紀認識の本質を明らかにするとともに、どういった勢力が、何のために古事記を残したのかを検証した。
みんなで古代史を考える会 https://kodai21.com/
令和2年11月24日


『陳寿は倭人伝の距離が誇大であることを知っていた』星野 盛久(会員番号10217)
倭人伝には邪馬台国の場所についての記事が三か所ある。著者はこの記事に潜む矛盾に気付き、三国志全体の「里」が表す距離を検証、倭人伝と韓伝の中の距離だけが誇大になっていることを突き止めた。
令和2年11月13日


『邪馬臺国の位置想定再考』谷浦 寿泰(会員番号10391)
魏の使者たちが時の皇帝の命で倭国特に邪馬台国を訪れた道里と方向の疑問、陳寿が何か意図を持って書いたのかを探った前回の自説論文に三国志時代の世界観及び日本書紀崇神紀の記述を交えて再考察しました。
令和2年11月1日


『古代史から見た邪馬台国 続』川崎 一仁(会員番号10378)
令和2年8月14日


『倭人伝に記された「邪馬台国」への「真」の道』塚田 和正(会員番号10377)
魏志倭人伝に記された邪馬台国への行程の記述に全く誤りは無かった。 書かれた通りに読み解くと、時計回りに九州を一周して邪馬台国に到着するルートであった。  令和2年7月28日


『卑弥呼女王国は二万戸だった』田口 紘一(会員番号10408)
卑弥呼が支配していた女王国の領域をかつて甕棺墓制があった筑紫地方と考え、また、吉野ケ里遺跡を中心とするクニの人口が五千余人と推定されていることから、女王国の戸数を推定した。  令和2年7月27日


『魏志倭人などから読み解く邪馬台国時代の年代論』内野 勝弘(会員番号10002)
令和2年7月19


『墳時代を作った男の話(4)』福島 巖(会員番号10063)
手漕ぎ船が瀬戸内海を通れなかった3世紀近畿に鉄を送る航路を開発したのは天日槍である。彼一族が大和王朝の中心人物である。鉄を使った地域開発で米が豊富に取れ豊かな社会を作った。吉備津彦が誰かも明らかにした。    令和2年7月10日


『八女の邪馬国王の卑弥呼が共立されて邪馬壹国王』神尾 忠和(会員番号10333)
令和2年7月9日


『銅矛をまつる北部九州の東征と3世紀中頃のホケノ山古墳の出現』柴山 鳥人(会員番号10387)
銅矛をまつる北部九州の国家が東征し、3世紀中頃、奈良盆地東南部に初期ヤマト政権が成立した。初期ヤマト政権では政治・軍事を担う大王よりも宗教的権威のある斎宮(日巫女)が国王と認識されていた。    令和2年7月4日


『徐福渡来の真相は疫病対策だった』たかみやしんじ(会員番号10206)
2020年初めに中国湖北省に発した新型コロナウイルスは世界中を震撼させた。このような疫病は古代史においても度々蔓延していたことが歴史書に著されているが、これをもっと身近な逼迫した問題として古代史を捉え直す必要があるのではないかと考えた。    令和2年5月3日


『魏志倭人伝(5)』山下 浩(会員番号10369)
『魏志倭人伝』連載の最終回。「日巫女の外交」、「女王国の社会」のあと、日巫女と豊が我国の正史からみごとに消えてしまった原因、背景を探り、弥生時代から古墳時代へとつながる歴史を再構築します。    令和2年5月1日


『史料にみる邪馬台国の位置の条件』菊地 昌美(会員番号10197)
史料には邪馬台国について、色々なことが書いてあります。 この数多の条件を全て満足させることが、邪馬台国の位置の条件です。 少なくとも満足させるべき条件を基に、邪馬台国の位置を探ってみました。    令和2年3月11日


『水行10日陸行1月』は纏向への旅だった』槌田 鉄男(会員番号10094)
3世紀、九州の邪馬台国に対し、奈良の纏向に新たな政権ができた。 卑弥呼の死後20年近く経た266年、倭人が晋に朝貢し、男女2人の王が爵位を得ている。 その時の使者は邪馬台国から陸行1月水行10日で来たと告げた。    令和2年3月5日


『日本語の起源「古典サンスクリット語」で解く魏志倭人伝』高橋 正典(会員番号10413)
日本語は古典サンスクリット語と漢字の融合語 。 古事記と魏志倭人伝の神名等から古代インドの祖霊神ヤマとヤミーの化身が倭の創造神伊邪那岐命・伊邪那美命。 邪馬壱(台)国は 囮(おとり)の国、 倭(やまと)はヤマの領地 。    令和2年2月3日


『『魏志』倭人伝行程の解明・仮説を見直したら』田口 紘一(会員番号10408)
陳寿は倭の実態を知らず、魏の都にあった複数の資料から「倭国伝」を構築した。 帯方郡から邪馬台国までの行程は四つの史料を組み合わせた。また、短里を知らず、長里で「倭は会稽東冶の東にある」と計算した。    令和2年1月25日


『解読「邪馬台国への道」』塚田 和正(会員番号10377)
魏志倭人伝に書かれた邪馬台国までの路程について、書かれた通りにたどった結果、九州を一周するルートで邪馬台国に到着した。解読に至った基本的な考え方について説明する。    令和2年1月14日


『古代史から見た邪馬台国』川崎 一仁(会員番号10378)
邪馬台国が九州か畿内かついて、魏志倭人伝に記載されている年代および人名と日本の古代史、主に天皇史から年代との整合性を調査研究した。 それにより邪馬台国は九州にあったがその後畿内に移ったことが分かった。
自己紹介 福岡大学薬学部卒、大学院修士課程修了。 理系であるにもかかわらず、従来より古代史に関心があり、近年、古事記日本書紀以外の資料の存在を知り、邪馬台国に限らず研究をしているところです。資料検討のみならず、できるだけ現地を訪問するようにしております。    令和2年1月8日


『古墳時代を作った男の話(3)と倭奴国の金印は偽物だった』福島 巖(会員番号10063)
古墳は鉄を運ぶ港の役割から溜池を作って米作を行う事業に変化した。丹後半島の古墳を応用して箸墓古墳が作られた。 大和・河内・吉備などの稲作地帯は古墳の周濠水に頼っている。これをやった集団の話を展開する。 最後のページに「倭奴国の金印は偽物である」を載せています。    令和2年1月7日


『「古代天皇の年代観に対する新視点」 ~中臣氏の系譜から見た「記紀の紀年論」~』米田 喜彦(会員番号10066)
記紀などの史書には、「中臣氏」の一族(先祖)が登場します。 「中臣氏」の系譜は、『古代豪族系図集覧』によって、分かっていますので、この「系譜」を年代の物差しにして、古代天皇の謎に迫ってみようと思います。    令和2年1月4日


 

平成31年/令和1年
『福岡県朝倉市山田にある恵蘇八幡宮の墳墓状構造(御陵山)の水銀調査結果報告』 江原幸雄・野田徹郎・清水 明
『陰陽思想と太陽神』 柴山 鳥人
『世界遺産「沖ノ島」、国宝「中平刀」が語る邪馬台国の興亡 完結編』 小林 良自
『魏志倭人伝(4)』 山下 浩
『邪馬台国は蓬莱の地だった』 たかみやしんじ
『倭人伝の語源を探る(その4)』 神尾 忠和
『天皇に滅ぼされた邪馬台国』 西山 恒之
『『東夷伝』と『三国史記』へのアプローチ』 米田 喜彦
『仮説としての邪馬台国「福岡・朝倉説」』 江原 幸雄
『国生み神話の復元』 柴山 鳥人
『古墳時代を作った男(2)』 福島 巖
『難民がつくった国「邪馬台国」6』 星野 盛久
『世界遺産「沖ノ島」、国宝「中平刀」が語る邪馬台国の興亡』 小林 良自
『第二の邪馬台国が大和国になった』 塚田 和正
『建御雷神(タケミカヅチ)は大歳尊だった』 たかみやしんじ
『魏志倭人伝(3)』 山下 浩
『邪馬臺国の位置想定(自説)』 谷浦 寿泰
『倭人伝の語源を探る(その3)』 神尾 忠和
『神武東征の出発点はどこか』 白崎 勝
『古墳時代を作った男の話(1)』 福島 巖
『帯方郡から邪馬台国へ至る道程の真相解明』 兒玉 眞

平成30年
『弥生時代のはじまりは500年遡ることはない』 丸地 三郎
『神武東征の出発点はどこか? ―日本書紀の作られ方(5W1H)―』 米田 喜彦
『邪馬台国に到達するために』 西山 恒之
『春秋 半年暦と 倒語』 柴山 鳥人
『史料からわかる邪馬台国九州説が成り立たない理由』 菊地 昌美
『高天原にある卑弥呼の墓』 大野 克浩
『THE『邪馬臺國』』 福嶋 正日子
『魏志倭人伝 (2)』 山下 浩
『相撲のルーツは四隅突出型墳丘墓だった』 たかみや しんじ
『完全順次式でたどる邪馬台国への道』 塚田 和正
『桃の種は語る「狗奴国は吉備邪馬台国を手に入れた」』 川上 郁夫
『神武・倭国の連合東遷説』 白崎 勝
『「於等由羅(とゆら)宮治天下天皇」と「豊浦宮帝」についての考察』 米田 喜彦
『「元祖:私の邪馬壹国論」-倭人伝3段階成立- 』 安彦 建夫
『倭人伝の語源を探る(その2) 』 神尾 忠和
『情報理論から見た魏将軍・司馬懿と女王(邪馬台)国の関係 』 金田 弘之
『倭の五王から倭の七王へ 』 住谷 善愼
『魏志倭人伝 (1) 』 山下 浩
『卑弥呼の墳墓を確定- その業績を紹介 - 』 茅 出彦
『難民がつくった国「邪馬台国」5 』 星野 盛久
『記紀は魏志を描いていた(私の邪馬台国論として) 』 たかみや しんじ
『21世紀的魏志倭人伝考(後編) 』 若松 博
『『魏志倭人伝』の読み方について 』 吉原 賢二
『飛鳥と明日香と阿邪訶(あざか) 』 白崎 勝
『古代史空白の150年をホツマツタエで考察する 』 林 ひろゆき
『古田「ヤマダイ」国論争から「ヤマタイ大嘘八百」論争まで・・・・・邪馬台国論争は既に終わっている 』 掛布 広行
『消された古代東倭(東ヤマト=東三河)は後期邪馬台国!? 』 前田 豊

平成29年
『倭人伝の語源を探る 』 神尾 忠和
『邪馬台国は葛城である 』 大野 克浩
『卑弥呼の墓の特徴を発見した 』 河野 俊章
『「初期天皇の系譜」についての考察 』 米田 喜彦
『古代東国にやってきたのは出雲だった 』 たかみや しんじ
『難民がつくった国「邪馬台国」4』 星野 盛久
『古代は壹與に始まった 』 萩尾 学
『倭国の大乱と邪馬台及び狗奴誕生 』 川上 郁夫
『21世紀的魏志倭人伝考(前編)』 若松 博
『継体天皇の二王朝並立説〈付記:隅田八幡神社所蔵「人物画像鏡」銘文の新解釈〉』 伊藤 雅文
『欠史八代の天皇(綏靖天皇~開化天皇)は架空の天皇。それって本当?』 久保田 真光
『魏使行程の検証』 白崎 勝
『古事記に秘められた指令・・・唐王朝を再興せよ!』 西山 恒之
『魏志倭人伝などの間違い、疑問点を考察する』 河野 俊章
『4世紀の紀年論』 米田 喜彦
『妃のいない大王』 大野 克浩
『難民がつくった国「邪馬台国」その6―青銅祭器、鉄製武器、高地性集落―』 星野 盛久
『祟神朝(大和)と景行朝(日向)は併存していた』 たかみや しんじ
『戸数・家数から判る邪馬台国』 菊地 昌美
『騎馬民族説の復活(改4)「扶余族に征服された邪馬臺国」』 槌田 鉄男
『邪馬台国・日本(ひのもと)を占領征服した唐王朝』 西山 恒之
『行程から読み解く魏志倭人伝その2』 吉田 薫
『古事記と魏志倭人伝のリンク』 白崎 勝

平成28年
『邪馬台国へ至る二つの道』 河野 俊章
『邪馬壹國は大分県東北部に在った ― 距離と方角を重視したアプローチ ―』 酒井 正士
『倭国の始まりと終り』 福島 巖
『邪馬台国と倭の五王』 林 ひろゆき
『『武内宿禰』と『多遅摩氏』の系図解読について』 米田 喜彦
『国譲りは関東で繰り広げられていた』 たかみやしんじ
『文章構造と軍事戦略からみた「水行十日陸行一月」の経路』 金田 弘之
『難民がつくった国「邪馬台国」2』 星野 盛久
『桃核祭祀は吉備邪馬台国の卑弥呼の鬼道か』 岡 將男
『とうとう「邪馬台国」の謎は解明された』 西山 恒之
『邪馬台国の所在地について』 平松 全一
『古地図などの記載里数と大圏距離の対比について』 住谷 善愼
『騎馬民族説の復活「扶余族に征服された邪馬臺国」』 槌田 鉄男
『行程から読み解く魏志倭人伝と邪馬台国』 吉田 薫
『2世紀の天照大御神と3世紀の卑弥呼』 井手 將雪
『「周旋」の新解釈と畿内説の不成立』 伊藤 雅文
『邪馬台国の新視点 原ヤマト東三河・狗奴国駿河以東説』 前田 豊
『私(米田)にとって、系図解読とは何か・・系図から見えてくること・・』 米田 喜彦
『倭王・倭軍は大伽耶の人々』 福島 巖
『二つの天孫降臨は連動していた』 たかみやしんじ
『難民がつくった国「邪馬台国」』 星野 盛久
『反時計回り連続説』 兒玉 眞
『神と古代史との一考察』 村山 智浩
『『日本書紀による日本古代史の再構築』-春秋二倍暦仮説を基にして-』 牧村 健志

平成27年
『騎馬民族説の復活『扶余族に征服された邪馬臺国』』 槌田 鉄男
『邪馬台国、その誕生と滅亡』 西山 恒之
『オノゴロ島祭祀=前方後円墳祭祀起源説』 淤能碁呂太郎
『倭国大乱と崇神擁立は同時進行していた』 たかみやしんじ
『私の古代史「卑弥呼とタケル」』 福島 巖
『魏志倭人伝の「道里」に関する新考察』 伊藤 雅文
『邪馬台国は日向国の一部だ』 河野俊章
『史料が示す『邪馬台国は大和国』』 菊地 昌美
『ふみ国経由 邪馬台国行き―「方位」「距離」「日数」の謎は解けた』 松尾 定行
『なぜ魏使は網野に上陸したのか?』 住谷 善愼
『加耶の変遷から見た倭国の統一』 米田 喜彦
『倭国は九州北部の小国三十国の連合国だった』 兒玉 眞
『狗奴国との戦は無かった!』 髙川 博
『邪馬台国と大和朝廷の誕生秘話 「騎馬民族説の復活」』 槌田 鉄男
『新説:出雲邪馬台国私考』 「出雲邪馬台国研究会」 代表 小林 攻一
『邪馬台国 新畿内説』 矢 野 寿 一
『陳寿の筆法と魏志倭人伝の謎の解明』 田中真生雄(たなかまきお)

平成26年
『耶馬台国よ いずこへ』 柴田 克彦
『奈良盆地から発信する「邪馬台国九州説」』 飯田 眞理
『邪馬台国田原本説』 住谷 善愼
『纏向型前方後円墳は4世紀代の古墳』 石井 好
『邪馬台国山陰説』 田中 文也
『邪馬台国はどこにあったか?魏の使者は帆船で博多湾に!』 丸地 三郎
『先代旧事本紀』「国造本紀」にみる邪馬台国』 志村 裕子
『邪馬台国吉備説・狗奴国大和説』 若井 正一
『魏と呉の覇権争いからみた「女王国の争乱」』 金田 弘之
『邪馬台国は韓半島高霊』 福島 巖
『邪馬台国「出雲説」概論』 西山 恒之
『陳寿の記した道里』 伊藤 雅文
『系図解読マニアの系図解読から見えてくる『邪馬台国』』 米田喜彦
『伊都国・邪馬台国 両国論』安彦 建夫
『邪馬台国と卑彌呼の風景(畿内説)』 水谷 敏行
『神武東征における邪馬台国』 白崎 勝

 


『福岡県朝倉市山田にある恵蘇八幡宮の墳墓状構造(御陵山)の水銀調査結果報告』江原幸雄(会員番号10367)・野田徹郎・清水 明
福岡県朝倉市の弥生~古墳時代と思われる円墳のフィールド調査報告。 水銀と共に遺体が埋葬された可能性のある古墳で調査を実施し、高い水銀濃度異常を検出。高貴な方が埋葬されている可能性が見出された。    令和元年12月27日


『陰陽思想と太陽神』柴山 鳥人(会員番号10387)
令和元年12月15日


『世界遺産「沖ノ島」、国宝「中平刀」が語る邪馬台国の興亡 完結編』小林 良自(会員番号10351)
陳寿が、邪馬台国へ至る道程「万二千余里」、「水行一か月、陸行一か月」を併記した理由を明らかにした。 「日本書紀」紀年策定のプロセス、神武、神功の伝承、日向問題を考察した。    令和元年11月12日


『魏志倭人伝(4)』山下 浩(会員番号10369)
魏志倭人伝の4回目。 大型墳丘墓と青銅器祭器の埋納について、続いて、九州勢の近畿征服と卑弥呼の即位までを読み解きます。    令和元年9月30日


『邪馬台国は蓬莱の地だった』たかみやしんじ(会員番号10206)
神仙思想にいう蓬莱の地とは縄文時代の日本列島のことであり、徐福一行はこの地を目指した。 そして、その後裔が邪馬台国を興し、古代日本建国史を飾ることとなる。    令和元年9月28日


『倭人伝の語源を探る(その4)』神尾 忠和(会員番号10333)
中国語と韓国語の発音と意味の互換性を重視して漢文を解読するものである    令和元年9月11日


『天皇に滅ぼされた邪馬台国』西山 恒之(会員番号10020)
我が国古代史最大の謎とされている邪馬台国は、西暦663年、天皇大聖大弘孝皇帝、つまり唐王朝第3代皇帝李治によって 滅ぼされていました。そして、彼らによって都合よく改竄された歴史が、この列島の歴史だとされました。 つまり、真実の隠蔽と偽りの歴史による洗脳です。そして、今に至るまでその支配体制も洗脳体制も何ら変わっていません。?みんなで古代史を考える会http://kodai21-s.sakura.ne.jp/?   令和元年8月25日


『『東夷伝』と『三国史記』へのアプローチ』米田 喜彦(会員番号10066)
今回の拙論のテーマの大半は、「三国志・東夷伝の信ぴょう性を考える。」です。 『王?』と『難升米』の人物にスポットを当てつつ、(系図を抜きにして)色々な問題にアプローチをしてみました。    令和元年7月18日


『仮説としての邪馬台国「福岡・朝倉説」』江原 幸雄(会員番号10367)
「魏志倭人伝」の中には邪馬台国の位置に関する重要な記述がなされ、いろいろな視点から議論されているが、 依然統一的な見解が得られていない。本報告では「仮説としての邪馬台国『福岡・朝倉説』」を紹介したい。 自己紹介 NPO地熱情報研究所代表・九州大学名誉教授(専門分野:地球熱システム学)。古代史への興味は小学生時代の土器ひろい からはじまり、やがて中学・高校で邪馬台国問題に関心を持ち、以後、アマチュアとして独学    令和元年6月27日


『国生み神話の復元』柴山 鳥人(会員番号10387)
古事記のイザナミの国生み神話の復元を起点にして大倭国の歴史は復元できる。    令和元年6月14日


『古墳時代を作った男(2)』福島 巖(会員番号10063)
アラシト一家が但馬・丹後に作った前方後円墳は箸墓古墳に先行する3世紀のものであることを証明した。 加古川を経由して大量の鉄が韓半島から関西に運び込まれた。    令和元年6月7日


『難民がつくった国「邪馬台国」6』星野盛久(会員番号10217)
連続して応募してきた「難民がつくったクニ『邪馬台国』」の第6章です。 前章では倭人伝に記載された距離は道のりを測ったものだと仮定した場合について検討し、大分県の石井入口遺跡にたどり着きました。 第6章では倭人伝の距離は直線距離を測ったと仮定した場合について検討し、邪馬台国は筑後平野の大規模遺跡のどれかであるとの結論に達しました。 同時に今回の検討で邪馬台国は北部九州以外にはありえないと確信し、改めて近畿説は成り立たないことを証明できたと考えています。    令和元年5月25日


『世界遺産「沖ノ島」、国宝「中平刀」が語る邪馬台国の興亡』小林良自(会員番号10351)
三十数年に渡り三世紀~五世紀を中心に日本の古代史、とりわけ邪馬台国、及び、 さきたま古墳群「稲荷山鉄剣」に関する謎の解明をテーマに研究を重ねてきました。 この度、古希を区切りに、邪馬台国に関する本稿をまとめました。    平成31年4月25日


『第二の邪馬台国が大和国になった』塚田和正(会員番号10377)
倭国の都「邪馬台国」で「卑弥呼」の宮殿を守っていた衛兵の後裔軍団が4世紀半ばに九州から畿内に移り住み、第二の邪馬台国とした。 8世紀にその地が「大和国」に定められた。    平成31年4月15日


『建御雷神(タケミカヅチ)は大歳尊だった』たかみやしんじ(会員番号10206)
本欄の小稿(「国譲りは関東で繰り広げられていた」)の続編。 「国譲り」を見つめなおしたところ、二つの時代に起きていたこと、建御雷神は大歳尊だったことが明らかとなった。    平成31年4月2日


『魏志倭人伝(3)』山下 浩(会員番号10369)
半年ごとに提出している、魏志倭人伝の3回目です。いよいよ九州勢の東進の開始です。    平成31年4月2日


『邪馬臺国の位置想定(自説)』谷浦 寿泰(会員番号10391)
魏の使者たちが時の皇帝の命で倭国特に邪馬台国を訪れたのは確実で、魏志倭人伝にある行程は本当なのかを 探った自説論文です。邪馬台国の水先案内人に先導されて纏向を目指した使者を疑似体験しました。    平成31年3月25日


『倭人伝の語源を探る(その3)』神尾 忠和 (会員番号10333)
中国語と融和した韓国語を、韓国語の音訓を借りて漢文で記した表記法を吏読字(筆者は融和文字と言う)と言います。 漢文の名詞を韓国語辞典で引き韓国語の音訓を知るのです。    平成31年3月18日


『神武東征の出発点はどこか』白崎 勝 (会員番号10056)
神武東征は小さな集団が瀬戸内海を船で進み、熊野を迂回し奈良に入った物語と考える人もいる。 しかし実態は、北部九州の倭国のクニグニとの連合による、綿密に計画された7年をかけた東遷であった。その出発地は?    平成31年2月15日


『古墳時代を作った男の話(1)』福島 巖 (会員番号10063)
瀬戸内海が船で通過できなかったため本州には鉄が届かなかった。日本海側から関西への航路を作り、大和、河内に大型溜池(古墳)をたくさん作った。 古墳は王の墓では無く米作を促進して繁栄した時代を築き上げた。    平成31年2月4日


『帯方郡から邪馬台国へ至る道程の真相解明』兒玉 眞 (会員番号10172)
『魏志倭人伝』に記される邪馬台国へ至る里程と日程は、一見全く相容れない距離に思えるが、この度私が二つの距離を矛盾なく両立できる説を 完成した処、なんと邪馬台国の所在地が地図上にありありと現出したのです。    平成31年1月18日


『弥生時代のはじまりは500年遡ることはない』丸地 三郎 (会員番号10038)
2003年5月、国立歴史民俗博物館(歴博)は、『九州北部や韓国の弥生早期から前期の土器を炭素14年代測定法のAMS法によって計測し, その結果,弥生時代の始まりは定説より約500年古い紀元前10世紀』とする新説を発表した。 この歴博説について疑義を呈し、500年遡らないことを示します。    平成30年12月31日


『神武東征の出発点はどこか? ―日本書紀の作られ方(5W1H)―』米田 喜彦 (会員番号10066)
この古代史論は、「神武東征の出発点はどこか?」という命題を、「5W1H」という視点から 立体的に眺めようと、自説の「神武天皇論(未完成)」を、作り直した小論(レジメ)です。    平成30年12月18日


『邪馬台国に到達するために』西山 恒之 (会員番号10020)
魏志倭人伝、後漢書、宋書、隋書、旧唐書にあるこの列島に関わる記述には、特に間違いも勘違いもありません。 ところが、唐王朝の勢力によって、それらの記述がことごとく書き換えられました。 その改竄された架空の歴史認識が、梁書、北史、南史、新唐書に残されました。 その改竄された歴史認識によって、我が国の人々は、いまだに捕らわれの身となっています。 本来の歴史に立ち返ることこそが、邪馬台国に到達できる唯一の道です。?みんなで古代史を考える会   平成30年12月15日


『春秋 半年暦と 倒語』柴山 鳥人 (会員番号10387)
日本書紀の応神天皇8年(西暦 277 年、丁酉)を百済阿華王6年(西暦 397 年、丁酉)と 同年の春分から秋分とした春秋半年暦の復元を起点にして大倭国の歴史は復元できる    平成30年12月12日


『史料からわかる邪馬台国九州説が成り立たない理由』菊地 昌美 (会員番号10197)
残念ながら、ほとんどの邪馬台国論が、魏志倭人伝を読んでいないのではと疑われるようなものだったり、一部分しか読んでいないようなもののようです。 そこで魏志倭人伝の一部分ですが、邪馬台国九州説が成り立たない理由を列挙してみました。    平成30年12月1日


『高天原にある卑弥呼の墓』大野 克浩 (会員番号10318)
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。    平成30年10月31日


『THE『邪馬臺國』』福嶋 正日子 (会員番号10023)
論者は、植民地時代の台湾で日本語教育者の父の長男として生誕。学齢にして引揚げ、父の故郷の筑後弁の洗礼を受ける。 言語的に研ぎ澄まされて育つ。古代史に興味を持つも、古今の研究者は言語に無頓着であることに気付く。読み漁る側から、 執筆者への意欲がわく。「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」を引っ提げて、謎解きに挑む。    平成30年10月18日


『魏志倭人伝(2)』山下 浩 (会員番号10369)
前回の続きで、「女王国の歴史」の1回目で、「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年」を読み解いていきます。    平成30年10月12日


『相撲のルーツは四隅突出型墳丘墓だった』たかみや しんじ (会員番号10206)
相撲のルーツを尋ねてみたら、四隅突出型墳丘墓に辿りついた。 そして又、四隅突出型墳丘墓上では葬送儀礼として相撲が行われていた。    平成30年10月5日


『完全順次式でたどる邪馬台国への道』塚田 和正 (会員番号10377)
魏志倭人伝の原点に戻り、書かれた通りの順序と旅程によって、邪馬台国への道をたどってみた。 その結果、邪馬台国には九州を一周して到達できた。これは卑弥呼が倭国全体を見せたいために、魏の使節を遠回りさせ、 その旅程が魏志倭人伝にそのまま記されたからであろう。    平成30年9月6日


『桃の種は語る「狗奴国は吉備邪馬台国を手に入れた」』川上 郁夫 (会員番号10338)
纏向遺跡から発見された桃種の年代測定結果が西暦135年~230年と発表された。 であるならば、約1万個の桃種が発見された倉敷市の上東遺跡こそが邪馬台国であり、纏向遺跡は狗奴国と考えられる。    平成30年9月3日


『神武・倭国の連合東遷説』白崎 勝 (会員番号10056)
神武と倭国が連合して東遷した説です。 東征にあたり神武兄弟は、まず高天原に出向き当時の倭国女王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台を大和に遷すことを決めました。 略して「連合東遷説」です。    平成30年8月17日


『「於等由羅(とゆら)宮治天下天皇」と「豊浦宮帝」についての考察』米田 喜彦 (会員番号10066)
この拙論の原題は、【二人の「聖徳太子」】です。 そのうち、書き直して、【「天照大神・伊勢大神」の祭祀者(炊屋姫:かしきやひめ)について】に変わるだろうと思います。 集めた史料・資料を眺めていて、そう思います。    平成30年7月4日


『「元祖:私の邪馬壹国論」-倭人伝3段階成立-』 安彦 建夫 (会員番号10081)
若い頃から探偵小説を読んできました。特にE.Queenから新本格派の作品は、表面上は不可解で不可能な事件が起こりますが、 基本的には常識が支配する世界を書いたものです。 倭人伝もその延長で読みました。    平成30年6月6日


『倭人伝の語源を探る(その2)』 神尾 忠和 (会員番号10333)
中国語と韓国語が融和した韓国語、日本語と韓国語が融和した韓国語で、漢字の音訓を借りて韓国語を記すのに用いた表記法を吏読と言います。 この方法で既に対馬・一大・末羅・伊都・倭人・卑弥弓呼・卑弥呼・ヤマト・地図を述べました。    平成30年5月30日


『情報理論から見た魏将軍・司馬懿と女王(邪馬台)国の関係』 ?金田 弘之 (会員番号10033)
魏志倭人伝、晋書、東夷伝序、自然現象などを情報理論により解析(仮説設定⇒相関性、時空の連続性)して、 魏将軍(丞相)・司馬懿と女王(邪馬台)国の関係を鮮明にすることにより、 女王国の位置づけ・役割や魏志倭人伝が詳細に記述された背景を明らかにする    平成30年5月29日


『倭の五王から倭の七王へ』 ?住谷 善愼 (会員番号10112)
本稿は通説にいう「倭の五王」ではなくて「倭の七王」であることを 中国正史『宋書』に記す倭国400年代の宋王朝への朝貢事跡から明らかにするものである。    平成30年5月15日


『魏志倭人伝 (1)』 ?山下 浩 (会員番号10369)
「魏志倭人伝には、一部に伝聞や改竄された記事もあるが、弥生時代の情報が濃密に記載されている。 遺跡など他の史料と照合することにより弥生時代の実相に迫ることができる。一文ずつ読解し、歴史の真実に迫りたい。    平成30年4月22日


『卑弥呼の墳墓を確定- その業績を紹介 -』 ?茅 出彦 (会員番号10063)
「径百余歩、百人の殉葬者を持つ」墳墓を天照大神の生誕の地高霊にある事を確定した。   彼女は数十年続いた倭国大乱を製鉄業を起業して解決した。大伽耶国の基礎を築いた。   また魏使の渡航ルートもクリアーにした。    平成30年4月11日


『難民がつくった国「邪馬台国」5』 ?星野 盛久 (会員番号10217)
私のライフワークとして執筆している「難民がつくった国『邪馬台国』」の第5回です。 今回はいよいよ帯方郡から邪馬台国までの行程をどう考えるかの核心部分になりました。 倭人伝に記述されている距離は魏の役人がたどった道のりを実際に測ったものと考えた場合と、 計算で割り出したものと考えた場合の二通りの検討をしています。 今回は道のりの実測値だったと仮定したっ場合、どういう仮説が成り立つのかについて考察しました。 その結果はからずも私が住んでいる大分県の大野川上流に邪馬台国があった可能性があるという結論に達しました。    平成30年4月7日


『記紀は魏志を描いていた(私の邪馬台国論として)』 ?たかみや しんじ (会員番号10206)
「邪馬台国」がその頃の東アジアにおいて日本を代表するような国であり、日本国内において相応の位置にあったとするならば、 記紀の編者たちは何らかの形でこれを記述したはずではないかと考えた。    平成30年4月5日


『21世紀的魏志倭人伝考(後編)』 ?若松 博 (会員番号10335)
筆者は、普段からインターネットを多用することが多い。 その筆者が『魏志倭人伝』の世界にとり憑かれて16年。 得意のインターネット検索を駆使して収集した情報・書籍を総合的に解析し、21世紀の「邪馬台国論」を展開する。    平成30年3月17日


『『魏志倭人伝』の読み方について』 ?吉原 賢二 (会員番号10337)
『魏志倭人伝』の読み方をめぐり、卑弥呼の都は北九州か近畿か論争になっている。 しかしこれを首都と副都があったとすると、両論をアウフヘーベン(止揚)できる。都は複数であった。    平成30年2月9日


『飛鳥と明日香と阿邪訶(あざか)』 ?白崎 勝 (会員番号10056)
飛鳥と明日香の由来研究である。阿邪訶は猿田彦神が、比良夫貝に手を取られ溺れた場所、と古事記にある。 明日香はこの阿邪訶にあてた良字で、飛鳥は明日香の地から、高取山(鷹取山)が見えることに由来していた。    平成30年2月6日


『古代史空白の150年をホツマツタエで考察する』 ?林 ひろゆき (会員番号10265)
ホツマツタエの原本は、500年頃に編纂された真書であると証明する。またホツマツタエにより、 空白の150年を埋める事が出来たと考える。    平成30年2月1日


『古田「ヤマダイ」国論争から「ヤマタイ大嘘八百」論争まで・・・・・邪馬台国論争は既に終わっている』 ?掛布 広行 (会員番号10363)
これまでの「邪馬台国論争」が決着しなかったのは『三国志』を間違いと決めつけたことという反省をもとに、 『三国志』間違い説も含めて、事実を積み重ねて論証して、『三国志』が゙間違いでないと証明し、 それは邪馬台国論争が始まる前、既に論証されていたことを示し、新たな古代史研究を始めるべきことを述べている。    平成30年1月25日


『消された古代東倭(東ヤマト=東三河)は後期邪馬台国!?』 ?前田 豊 (会員番号10135)
本報告は、東三河が『晋書』宣帝紀に記載された「東倭(東ヤマト)」即ち、 魏志倭人伝に取り上げられた倭国の重要拠点(後期邪馬台国)との仮説を提言するものである。    平成30年1月4日


『倭人伝の語源を探る』 ?神尾 忠和 (会員番号10333)
初めまして。中国の古文書で倭人伝・倭国伝などに関連のある文章に興味があり、よく読んでいます。 皆さんの仲間に入りたくて小文を書きました。宜しくお願い致します。    平成29年12月9日


『邪馬台国は葛城である』 ?大野 克浩 (会員番号10318)
卑弥呼最有力と言われるのがアマテラスとモモソ媛。 10 代崇神が 4世紀初~前半に決まりつある昨今、どちらも時代的にあり得ません。 もはや卑弥呼はたった一人に絞られたと思っています。そして住んだ場所も分かります。    平成29年12月8日


『卑弥呼の墓の特徴を発見した』 ?河野 俊章 (会員番号10083)
邪馬台国比定地は、数多くあるが中々特定できない。 しかし卑弥呼の墓に何らかの特徴があれば、より確実に邪馬台国が発見できるはずである。    平成29年12月5日


『「初期天皇の系譜」についての考察』 ?米田 喜彦 (会員番号10066)
各部族の「始祖伝承」の比較することで、「初期天皇の系譜」の解読・復元に挑戦しました。 発表後に変更・修正はあると思いますが、中間報告として発表させて頂きます。    平成29年12月3日


『古代東国にやってきたのは出雲だった』 ?たかみや しんじ (会員番号10206)
縄文時代から弥生時代に形成されていた「翡翠ロード」や「黒曜石の道」は、又、出雲から弥生文化が運ばれてきたルートでもあった。 そのような中で、諏訪神社が果たした役割について検討してみた。    平成29年10月5日


『難民がつくった国「邪馬台国」4 』 ?星野 盛久 (会員番号10217)
ライフワークとしてまとめている論文の第4回目の応募です。 今回の内容は倭人伝をどう読めばよいかという点に焦点を当てた部分です。「倭国乱」については「後漢書」が「倭人伝」を読み間違った。 卑弥呼は魏の将軍司馬懿の都合で倭王になり、魏の都合で殺された。倭人伝の人口や距離の数値はなぜ誇大になったのか。 以上のような点について私の考えをまとめました。ご批判をいただければありがたいと思います。    平成29年10月2日


『古代は壹與に始まった』 ?萩尾 学 (会員番号10342)
ごりごりの九州説である私は、邪馬壹國のある九州が何故卑弥呼時代から衰退し畿内が急速に発展して行くのか、 その答えを持っていなかった。ある日、卑弥呼と壹与の間に深い断絶を感じた。すると歴史が繋がりはじめた。?http://sisoou.web.fc2.com/?   平成29年10月1日


『倭国の大乱と邪馬台及び狗奴誕生 )』 ?川上 郁夫 (会員番号10338)
邪馬台国については多くの方が文献及び遺跡の調査研究を行い、成果を出しているところです。 その成果にわずかの想像を加えて、古代史の流れをすっきりと整理してみました。    平成29年9月27日


『21世紀的魏志倭人伝考(前編)』 ?若松 博 (会員番号10335)
筆者は、普段からインターネットを多用することが多い。その筆者が『魏志倭人伝』の世界にとり憑かれて15年。 得意のインターネット検索を駆使して収集した情報・書籍を総合的に解析し、21世紀の「邪馬台国論」を展開する。    平成29年9月20日


『継体天皇の二王朝並立説〈付記:隅田八幡神社所蔵「人物画像鏡」銘文の新解釈〉』 ?伊藤 雅文 (会員番号10126)
『日本書紀』の記述から、継体天皇朝と仁賢天皇・武烈天皇朝が並立した可能性を探った。 古代天皇の実年代探求における「六世紀初頭」を考える。    平成29年9月18日


『欠史八代の天皇(綏靖天皇~開化天皇)は架空の天皇。それって本当?』 ?久保田 真光 (会員番号10287)
確かに、彼らの寿命や在位年数などをみると、信じられないが、それ以外の系譜や、宮や陵の所在地、妃の出身地などは、 後世の作り話にしては、偏り過ぎている。    平成29年9月16日


『魏使行程の検証』 ?白崎 勝 (会員番号10056)
本文は、魏志倭人伝が記す邪馬台国に至る行程を、夏至の日の出方角を東とした基準と、「周碑算経」に記録された千里の距離基準で、 これまで有力比定地とされたクニ位置について、検証したものです。    平成29年9月14日


『古事記に秘められた指令・・・唐王朝を再興せよ!』 ?西山 恒之 (会員番号10020)
古事記には、この列島の中枢を支配する唐王朝の残党勢力に、「再び大陸に支配者として舞い戻り、唐王朝を再興せよ。 そのためには、日本人を徹底的に騙して利用せよ」と伝え残されていました。?http://kodai21-s.sakura.ne.jp/to-m.htmlp/?   平成29年8月21日


『魏志倭人伝などの間違い、疑問点を考察する』 ?河野 俊章 (会員番号10083)
残念ながら誰の説か記憶にないが、「{陸行一月}は変だ。{陸行一日}ではないか」と言う指摘を見て感心したことがある。 魏志が間違っているのかも知れない、考古学が間違っているのかもしれない。 ともかく間違いらしき所を修正しながら考察しながらやってみよう。    平成29年6月20日


『4世紀の紀年論』 ?米田 喜彦 (会員番号10066)
前回発表した「『武内宿禰』と『多遅摩氏』の系図解読について」を、 (細かい修正をしつつ、)発展させて、4世紀の年表まで作りました。    平成29年5月6日


『妃のいない大王』 ?大野 克浩 (会員番号10318)
卑弥呼について、数年前から、なぜこの人物が卑弥呼候補になっていないのか、ずっと疑問でありました。 時代も合致し、女王にふさわしい地位の人物です。 私は素人ですが、今回、思い切って発表したいと思います。    平成29年5月4日


『難民がつくった国「邪馬台国」その6―青銅祭器、鉄製武器、高地性集落―』 ?星野 盛久 (会員番号10217)
邪馬台国は九州の筑後川流域にあったと考えています。 できるだけ客観的な論議ができるようにしたいので考古学の成果を踏まえ 弥生時代とはどういう時代だったのかを全体像としてとらえ邪馬台国に迫りたいと考えています。 論文は約10万字になりますので5回に分けて応募するつもりです。今回はその3回目です。    平成29年4月7日


『祟神朝(大和)と景行朝(日向)は併存していた』 ?たかみや しんじ (会員番号10206)
本欄の小稿(「倭国大乱と祟神擁立は同時進行していた」)の続編。 記紀では繋がっていたように記述される祟神朝と景行朝であるが、 大和では祟神朝が日向では景行朝が併存していたことの論証を試みた。    平成29年4月5日


『戸数・家数から判る邪馬台国』 ?菊地 昌美 (会員番号10197)
魏志倭人伝の戸数・家数の記述から、邪馬台国当時の人口と、どこにあったのかを推測しました。 史料に書いてあることを根拠に、推測しましたものです。一読してください。 ご意見などお待ちしています。    平成29年3月10日


『騎馬民族説の復活(改4)「扶余族に征服された邪馬臺国」』 ?槌田 鉄男 (会員番号10094)
馬を忌み嫌っている邪馬臺国、馬に対している対馬国、馬を投げる投馬国。 女王国は馬に悩まされ邪馬臺国では4つの官の中で3つを馬担当にしました。 『騎馬民族説の復活』4回目です。完成度も上がり必読です。    平成29年2月26日


『邪馬台国・日本(ひのもと)を占領征服した唐王朝』 ?西山 恒之 (会員番号10020)
邪馬台国、そしてこの日本は、663年秋、唐王朝によって占領征服されていました。 その支配関係は変わることなく今に至っています。今回は、その経過が記された資治通鑑を検証します。 みんなで古代史を考える会http://kodai21-s.sakura.ne.jp/?   平成29年2月18日


『行程から読み解く魏志倭人伝その2』 ?吉田 薫 (会員番号10270)
前稿において、短里説を採用し、邪馬台国や投馬国などへの行程を示した。 引き続き取り残していた課題を検討した結果、倭種の国を経由して、無理なく侏儒国、裸国・黒歯国に行き着くことができた。    平成29年1月18日


『古事記と魏志倭人伝のリンク』 ?白崎 勝 (会員番号10056)
伊邪那岐と伊邪那美は、神々の命を受け、「国生み」に向かった。 これが古事記が記す、日本の歴史の始まりである。 この二人の名が、魏志倭人伝に登場するクニの名から、一文字ずつ採った名であることを発見した。    平成29年1月1日


『邪馬台国へ至る二つの道』 ?河野 俊章 (会員番号10083)
世に多くの邪馬台国論があるが、率直に言うと「読む気にならない」のである。 それは逆の立場で考えると、私が書いた論も「読んでもらえない」、ということになる。  以下の論はわずか6ページほどの短いものである。ぜひ読んで頂きたい。詳しい説明はすべてリンクで行っている。    平成28年12月20日


『邪馬壹國は大分県東北部に在った ― 距離と方角を重視したアプローチ ―』 ?酒井 正士 (会員番号10299)
私は歴史に関しては全くの素人で、邪馬台国についても幾つかの書籍を斜め読みした程度ですが、 自然科学の研究を通じて培った論証方法に基づき、邪馬台国の所在地について解明したいと考えています。    平成28年12月8日


『倭国の始まりと終り』 ?福島 巖 (会員番号10063)
「倭国は金海に降臨した首露王の伽耶国から始まる。 その首露王が天照大神であることを明らかにした。 金官伽耶の最後の仇衡王が欽明天皇として乗り込んできた。 この時から日本が正式の倭国になった。」    平成28年11月11日


『邪馬台国と倭の五王』 ?林 ひろゆき (会員番号10265)
邪馬台国と倭の五王が日本の歴史より消えたのは、記紀により意図的に隠されたものと考えます。 どのように隠されたか、私なりの仮説で、古代天皇の系譜を作成しました。    平成28年11月8日


『『武内宿禰』と『多遅摩氏』の系図解読について』 ?米田 喜彦 (会員番号10066)
私は、「系図解読マニア」です。 (干支の解読から)4世紀が解読出来れば、おのずから『武内宿禰』や『多遅摩氏』が解読できるだろう。 ということで、これらの考察が最後にはどう絡んでくるか、お楽しみ下さい。    平成28年11月1日


『国譲りは関東で繰り広げられていた』 ?たかみやしんじ (会員番号10206)
記紀で著わされる「国譲り」は出雲国において展開されるが、その頃出雲には未だオオクニヌシはいなかった。 史実は、関東で展開された出雲系と日向系の覇権争いだった。    平成28年10月5日


『文章構造と軍事戦略からみた「水行十日陸行一月」の経路』 ?金田 弘之 (会員番号10033)
「水行十日陸行一月(日程)」は伊都国起点説が大勢ですが各説とも修正が必要です。 私見は、文章構造と軍事戦略から「日程⇒帯方郡~邪馬台国。経路⇒韓諸国陸行。倭国俯瞰⇒魏軍の派遣」であることを明らかにします。    平成28年10月4日


『難民がつくった国「邪馬台国」2』 ?星野 盛久 (会員番号10217)
4月に応募した同名の論文の続きです。 考古学や、文化人類学などの知見をベースに弥生時代を俯瞰し、邪馬台国の位置比定、魏志倭人伝の新解釈により 邪馬台国筑後説を唱えます。         論文全体は10万字になりますので、5回に分けて応募しています。 今回はその第2回です。    平成28年10月2日


『桃核祭祀は吉備邪馬台国の卑弥呼の鬼道か』 ?岡 將男 (会員番号10016)
岡山県倉敷市の楯築遺跡南にある上東遺跡波止場状遺構から、1998年に9608個の桃核が出土していた。 桃核祭祀は特殊器台や弧帯文の祭祀と同様に、吉備邪馬台国時代の卑弥呼の鬼道を構成する要素だと考える。 纏向遺跡の桃核は東遷した臺與のものであろう。    平成28年9月18日


『とうとう「邪馬台国」の謎は解明された』 ?西山 恒之 (会員番号10020)? 我が国の古代における大きな歴史的拠点であった出雲の地こそが、古代の都「やまと」であり「邪馬台国」でした。 今回は、中国に残されている史書を検証しました。       みんなで古代史を考える会 http://kodai21-s.sakura.ne.jp/t-m.html?   平成28年8月16日


『邪馬台国の所在地について』 ?平松 全一 (会員番号10273)
先月入会させていただいた平松(会員ID番号10273)と申します。 自分では、12,000里の距離の違いを地図で一目瞭然にしたことと、日数の短縮に関する考え方がユニークだと思っています。    平成28年8月10日


『古地図などの記載里数と大圏距離の対比について』 ?住谷 善愼 (会員番号10112)
本稿では古地図などに航路里数(=古代値)と現代の大圏距離数(=現代値)を対比して誤差的評価を行った。 結果、評価に大きなバラツキがあり航路里数から現代の換算kmを算出しても使えないことがわかる。 つまり、単純に古代値=現代値と置いて、邪馬台国の所在を立論するのは無理筋といえる。    平成28年8月3日


『騎馬民族説の復活「扶余族に征服された邪馬臺国」』 ?槌田 鉄男 (会員番号 10094)
弥生末から古墳時代への変化は明治維新に匹敵します。 この変化は『3世紀に騎馬民族が来た』事によると言う仮説を立て、その証明を行いました。 また三角縁神獣鏡発生の解明も加え、自説を大幅にリニューアルしました。    平成28年7月25日


『行程から読み解く魏志倭人伝と邪馬台国』 ?吉田 薫 (会員番号10270)
あらかじめ水行及び陸行の日速度を推定し、そこから行程及び各国の位置の解読を試みたところ、 原文の行程が無理なく解釈でき、かつ既知の見解や伝承とつながりのある姿が浮かび上がってきた。    平成28年7月13日


『2世紀の天照大御神と3世紀の卑弥呼』 ?井手 將雪 (会員番号10160)
『魏志』倭人伝に記録されている【伊都国に世々王有】の記録と、『古事記』に記録されている【天孫降臨】の記録が、 伊都国に実在した遺跡と遺物によって実証できました。 そして、その後の歴史の記録を『古事記』と『日本書紀』を詳細に検索した結果で、結論を出しました。    平成28年7月8日


『「周旋」の新解釈と畿内説の不成立』 ?伊藤 雅文 (会員番号10126)
『魏志倭人伝』中の「周旋可五千余里」は、旧来から「(倭国の)周囲は五千余里ばかり」と訳されているが、 この訳は果たして正しいのかを検証し、そこから何がみえてくるかを考察する。    平成28年6月6日


『邪馬台国の新視点 原ヤマト東三河・狗奴国駿河以東説』 ?前田 豊 (会員番号10135)
邪馬台国比定地は日本全国に146以上あるが、本論は弥生遺跡が多く、 銅鐸、甕棺墓の大量出土地である東三河を原ヤマト(邪馬台国)と仮説提唱する。 一方、狗奴国・駿河説と組合せて所在地を誘導する新説を紹介する。    平成28年5月21日


『私(米田)にとって、系図解読とは何か・・系図から見えてくること・・々』 ?米田 喜彦 (会員番号10066)
系図に関連して、下記のように考察をしました。  (1):独自に見つけた系図解読の方法。  (2):「国譲り」の系図パターンから見えてくること。  (3):「中臣氏」の系図から分かること。    平成28年5月12日


『倭王・倭軍は大伽耶の人々』 ?福島 巖 (会員番号10063)
倭国本体は古くは朝鮮にあり倭王も軍隊もそこに住んでいた人々のこと。 日本が住み易い場所であることが分かった6世紀以降には倭人が大挙して日本に移住した。 その結果任那が無くなり本家は日本に移った。   平成28年4月15日


『二つの天孫降臨は連動していた』 ?たかみやしんじ (会員番号10206)
「宋史」などを手がかりにして、記紀の神代記の一部史実復元を試みた。 そして、二つの天孫降臨を分析する中で、神武天皇誕生の史実復元にも迫ってみた。   平成28年4月5日


『難民がつくった国「邪馬台国」』 ?星野 盛久 (会員番号10217)
最近、根拠もなく近畿説が新聞で取り上げられ、なんとなく近畿説が有利であるかのような雰囲気が醸成されつつあることは不本意でなりません。 そこで、数年前に一度まとめた私の邪馬台国論「難民がつくった国『倭国』」に加筆し、 新しく「難民がつくった国『邪馬台国』」(九州説)としてまとめなおしました。 長文なので分割して投稿します。今回は第1回です。   平成28年4月4日


『反時計回り連続説』 ?兒玉 眞 (会員番号10172)
反時計回り連続説によると蘇奴国の次は筑後山門となりますが、筑後山門=邪馬台国は既述なので簡略化に拘る陳寿により省略されているようです。 ココさえ省略しなければ所謂邪馬台国論争は起きなかったはずですがね。 平成28年3月6日


『神と古代史との一考察』 ?村山 智浩 (会員番号10130)
WEB投稿初めていたします村山と申します。 記紀にありがちな歴史と神話を分ける分岐点を求めるという視点では無く、神話が創られた頃の視点に立ったつもりになり論を立ててみました。 よろしくお願いします。 平成28年2月22日


『『日本書紀による日本古代史の再構築』-春秋二倍暦仮説を基にして-』 ?牧村 健志 (会員番号10215)
現在の古代史学会では日本書紀は参考資料程度の扱いである。 しかし一見荒唐無稽な書紀の紀年は、春秋二倍暦仮説によって修正すると考古学の成果と見事に一致する。 この事実を基に日本の建国の実像を改めて構築する。 平成28年1月1日


『騎馬民族説の復活『扶余族に征服された邪馬臺国』』 ?槌田 鉄男 (会員番号10094)
2月に投稿した『邪馬臺国と大和朝廷の誕生秘話「騎馬民族説の復活」』を見直 し、矛盾点、補強点を探し分かりやすくしたつもりです。是非一読願います。 平成27年12月5日


『邪馬台国、その誕生と滅亡』 ?西山 恒之 (会員番号10020)
前回、邪馬台国「出雲説」のあらましを述べさせていただきましたが、今回は、 邪馬台国に至るそれまでの歴史をさかのぼり、また邪馬台国はどうなったのかと いったところを、大陸と我が国に残されている歴史的資料を比較しながら検証し てみたいと思います。 みんなで古代史を考える会http://kodai21-s.sakura.ne.jp/?平成27年11月15日


『オノゴロ島祭祀=前方後円墳祭祀起源説』?淤能碁呂太郎(おのごろたろう) (会員番号10216)
考古学的にノーマークの玄界灘「小呂島」。筆者は小呂島こそ伝説のオノゴロ島であり、 前方後円墳のモデルとなった可能性を見出した。渡来人による玄界灘 制圧史が「国生み神話」の原像だった。 淤能碁呂太郎のサイトhttp://onogorotarou0416.wix.com/one-page-layout-new?平成27年11月5日


『倭国大乱と崇神擁立は同時進行していた』?たかみやしんじ (会員番号10206)
邪馬台国は徐福一行が渡来して築いた日向国であった。狗奴国は新 羅系の渡来が築いた出雲国であった。倭国大乱は中国・朝鮮との交 易権確保を巡る日向と出雲の戦いであったが、両国の戦いは大和朝廷 においても同時に繰り広げられていた。 平成27年10月5日


『私の古代史「卑弥呼とタケル」』?福島 巖 (会員番号10063)
ツヌガアラシトが鉄の交易のために来日した。近畿への道を通すのに丹波の国を開発した。 その6世孫がタケル・仲哀天皇で古代日本の王朝を作り上げた立役者だった。箸墓が作ら れた事情も解明。  平成27年10月1日


『魏志倭人伝の「道里」に関する新考察』?伊藤 雅文 (会員番号10126)
最も安易に見える解決法が、最も真実に近いかもしれないという新考察です。 邪馬台国論争の前提条件となっている「道里」に注目して、行程記述を問いなおします。 ※本稿は2014年6月投稿「陳寿の記した道里」を発展させた増補改訂版です。  平成27年9月15日


『邪馬台国は日向国の一部だ』?河野俊章 (会員番号10083)
邪馬台国は大和朝廷の前身(隋書、北史)→ つまり邪馬台国は天皇支配の国→  しかし奈良にあった邪馬台国は、魏志に書いてある邪馬台国ではない→ 邪馬台 国の引っ越し=神武東征は歴史上必然の事業であった→ 魏志に書かれている邪 馬台国は「天皇家のふるさと」と同じである→ それは日向である→ ただし私は 古くはヒムカとれていた日向の一部、旧大隅国と思う→ その地は容認誤差内で魏志倭人伝に一致する 平成27年7月25日?「予言 大隅邪馬台国」全文のホームページ


『史料が示す『邪馬台国は大和国』』?菊地 昌美 (会員番号10197)
邪馬台国に関する根本史料は、『魏志倭人伝』だけではありません。『後漢書 東夷伝』『新羅本紀』『魏志韓伝』『後漢書韓伝』『宋書倭国伝』などもありま す。これらの史料の価値を良く検討すると、『邪馬台国は大和国』になります。 平成27年7月20日


『ふみ国経由 邪馬台国行き―「方位」「距離」「日数」の謎は解けた』?松尾 定行 (会員番号10198)
結論だけ手短に述べている論です。 平成27年7月10日


『なぜ魏使は網野に上陸したのか?』?住谷 善愼 (会員番号10112)
本稿で西暦240年来倭の魏使一行が日本海沿岸ルートであれば、どこに上陸 すれば最適なのかについて述べる。なお、動線は投馬国から水行10日でどこか に上陸し、さらに、陸行1月で其余旁国21国を順次経由し、邪馬台国まで行程 したとする。この動線を基本に水行と陸行の組合せ(モーダルシフト)を3種類 の地形モデルに適用し、丹後半島の網野が敦賀などに比較して地理的に最適な上 陸地点であることを見出した。 平成27年6月30日


『加耶の変遷から見た倭国の統一』?米田 喜彦 (会員番号10066)
加耶連合国家の誕生は、高句麗の五族そのもの(高句麗の南下)であった。 その中で、近畿・出雲・北部九州なども、加耶連合国家に組み込まれていった。 弥生時代は、近畿と九州は、交流があまり無かったが、加耶連合国家の誕生により (異父同母兄弟姉妹が多いため)同姓不婚の中で、支配層の婚姻による 交流が一気に盛んになった。男系の同族による後継者争いと、卑弥呼を含めた、 何人もの世主の女系断絶の中で、近畿や九州は、しだいに(男女双系の中で) 交流が深くなり、248年の後、世主を『台与』に統一することで (統一)倭国が誕生した。 平成27年6月25日


『倭国は九州北部の小国三十国の連合国だった』?兒玉 眞 (会員番号10172)
『魏志倭人伝』には女王国北の21ヶ国が連続して記されているが、過去にこの21ヶ国の比定に 成功した例はない。だが私は独自の「反時計回り連続説」を用い、史上初めて21ヶ国のほぼ全て を比定することが出来た。 平成27年5月6日


『狗奴国との戦は無かった!』?髙川 博 (会員番号10034)
外交と軍事の観点から魏志倭人伝その他の文献を読み解き、さらに考古学上の知見との整合性 を併せ考えたところ、邪馬台国連合と狗奴国の抗争の実体は存在しないという結論に達した。 これは卑弥呼政権が魏からの韓半島出兵要請をかわすために仕組んだ口実であり、国際戦略その ものであった。 平成27年3月6日


『邪馬台国と大和朝廷の誕生秘話 「騎馬民族説の復活」』?槌田 鉄男 (会員番号10094)
従来の近畿説、九州説いずれも私にはしっくり来ません。若い頃から興味のあった騎馬民族説 をベースに、今、考古学で事実とされている事から文献を読み直し、論理的に仮説を組立て大胆 なストーリーを作ってみました。 平成27年2月16日


『新説:出雲邪馬台国私考』?「出雲邪馬台国研究会」 代表 小林 攻一 (会員番号10017)
古代日本史の真実を解明するには古代中国史書の「後漢書」「三国志」「隋書」「翰苑」に 登場する”邪馬臺國”を比定することである。 平成27年2月16日


『邪馬台国 新畿内説』?矢 野 寿 一 (会員番号10082)
水行の起点からは放射式に、陸行の起点からは連続式に」という新しい仮説を提起している ユニークな論です。 平成27年1月28日


『陳寿の筆法と魏志倭人伝の謎の解明』?田中真生雄(たなかまきお) (会員番号10132)
普通、セットで考える「陸行一月」・「水行十日」を別々に考えている新しさを感じました。 邪馬壹国は、北九州、邪馬台国は、近畿の双方であるという  ユニークな論です。 平成27年1月20日


『耶馬台国よ いずこへ』?柴田 克彦 (会員番号10117)
皆さんは、耶馬台国や卑弥呼のことを語られ、また話題によくされますが、その後の耶馬台国について語られ ることが少ない。そこでこのタイトルに挑戦しました。闇の中から行灯を照らして少しでも見通せればと思い、 フリーの立場から、卑弥呼以後の耶馬台国が如何なることになったかを推論しました。 平成26年12月28日


『奈良盆地から発信する「邪馬台国九州説」』?飯田 眞理 (会員番号10108)
私は故郷奈良を愛するがゆえに、国・学者・マスコミ一体となった邪馬台国奈良説誘導に抗 して、日本の古代の真実を明らかにしたいのです。 平成26年10月27日


『邪馬台国田原本説』?住谷 善愼 (会員番号10112)
本稿では理工系の観点からいわゆる短里説や「一寸千里の法」が成立しないことを述べる。そして、 邪馬台国所在を求める究極の漢字は『魏志倭人伝』中の「或」と「次」の2文字とする。結果、 田原本(奈良県)の唐古・鍵遺跡を邪馬台国と比定する。 平成26年10月27日


『纏向型前方後円墳は4世紀代の古墳』?石井 好 (会員番号10039)
第1回東京地区大会で口頭発表した資料をweb発表としたものです。 考古学の成果でも解釈によっては邪馬台国大和説を否定できる・・・という論です。 平成26年7月19日


『邪馬台国山陰説』?田中 文也 (会員番号10003)
第1回東京地区大会で口頭発表した資料をweb発表としたものです。 邪馬台国論・・というよりは日本古代史を根底から考え直す壮大なスケールの論です。 平成26年7月19日


『邪馬台国はどこにあったか?魏の使者は帆船で博多湾に!』?丸地 三郎 (会員番号10038)
第1回東京地区大会で口頭発表した資料をweb発表としたものです。 当時の船舶の様子が論じられています。 平成26年7月19日


『先代旧事本紀』「国造本紀」にみる邪馬台国』?志村 裕子 (会員番号10040)
第1回東京地区大会で口頭発表した資料をweb発表としたものです。 先代旧事本紀・「国造本紀」は魏志倭人伝と無関係のようにみえますが・・・ 平成26年7月19日


『邪馬台国吉備説・狗奴国大和説』?若井 正一 (会員番号10024)
第1回東京地区大会で口頭発表した資料をweb発表としたものです。 題名通り、吉備説です。日本書紀の記述にも配慮されています。 平成26年7月19日


『魏と呉の覇権争いからみた「女王国の争乱」』?金田 弘之 (会員番号10033)
第1回東京地区大会で口頭発表した資料をweb発表としたものです。 魏と呉という当時の国際情勢を分析した論です。 平成26年7月19日


『邪馬台国は韓半島高霊』?福島 巖 (会員番号10063)
魏志倭人伝の行程解明に成功、卑弥呼の陵墓を確定した。邪馬台国は日本の事でなく倭国本体の できごと。邪馬台国は高霊の地にありこの国は後の大伽耶に発展する。日本の正しい古代史を 構築しよう! 平成26年7月2日


『邪馬台国「出雲説」概論』?西山 恒之 (会員番号10020)
『大和には 群山あれど 取りよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ  海原は 鴎立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は』(巻1-2)  この歌は、時の大王が、当時の都だった奈良大和にある香具山に登って詠んだとされています。  ところが、奈良盆地には、海もなければ「あきづ島」、つまりトンボのような形状の島など何処 にも存在しません。 平成26年7月1日


『陳寿の記した道里』?伊藤 雅文 (会員番号10126)
陳寿は『魏志倭人伝』の中に邪馬台国への明確な道里を記していた。それがなぜ「邪馬台国論争」 の原因となるあいまいな記述になったのかを探る。本稿の詳細は2014年7月中旬出版予定です。 平成26年6月30日


『系図解読マニアの系図解読から見えてくる『邪馬台国』』?米田喜彦 (会員番号10066)
「邪馬台国」は、九州北部のどこかである。「卑弥呼」は、独身で、子どもはいない。 私の作った系図には、『三国史記』の王の名前も出てきます。 それは、日本の皇族の先祖は、夫余の出身だからです。 平成26年6月19日


『伊都国・邪馬台国 両国論』?安彦 建夫 (会員番号10081)
若い頃から探偵小説を読んできました。特にエラリー・クイーンから新本格派の作品は、表面上は 不可解で不可能な事件が起こりますが、基本的には常識が支配する世界を書いたものです。倭人 伝もその延長で読みました。 平成26年6月15日


『邪馬台国と卑彌呼の風景(畿内説)』?水谷 敏行 (会員番号10084)


本内容は、拙HP「素直に読み解く日本古代史」http://wvgr.web.fc2.com/? の要旨になります。
浅い考察ではありますが、もし興味を持って下さる方がおられればHPも合せ参照願います。 尚、紙数制限から参考文献の説明不十分につき、ご了解賜りたく。 平成26年6月23日


『神武東征における邪馬台国』?白崎 勝 (会員番号10056)

白崎 勝
建国の過程が山の名に記録されていた。だれもが一度は同名の山が多くある不思議を感じたことだろう。この同名の山が 新しい情報となり、邪馬台国問題を解決できるかも知れない。古代人の英知に感謝したい。記録されていた山は高取山・ 鷹取山など同名の「タカ型山」と、高尾山・高倉山の「高」の一字を変えた○尾山・○倉山の同種の山だった。きっかけ は神奈川県に多く見つかる高取山・鷹取山は対で、日本武尊東征の足跡と仮定したことに始まる。

“>

Total Page Visits: 19 - Today Page Visits: 0